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ウエストバージニア州旅行記


2008年1月15日〜22日

  今回は、1月15日に関西空港を出発し、同じく1月23日に関西空港に帰着した9日間の旅である。ノースウエスト航空の話では関西空港発の米国デトロイト 直行便も3月2日に無くなり、また、デルタ航空に吸収され、徐々に機体の塗装もデルタ航空の色に塗り変えられとのこと、私のように昔からのノースウエスト 航空のファンにとっては二つの淋しいできごとである。

 デトロイト空港(DTW)は、アメリカでもアラスカ州を除く最北端にあり、冬は天候により空港の運用状況が変わりやすい。今回も、関空からの便は予定通 りに到着したが、それから先Charleston便が約1時間半遅れで出発した。出発後も、de-icingというのか空港内の別の場所で飛行機に付着し ている氷を取る作業が行われ、それから滑走路を離れた。
 
 Charleston空港(CRW)に到着し、泊まるホテル”Holiday Inn Express ? Charleston Civic Center”のshuttle busを呼び投宿した。夕食の為に外へでようとするも、あまりの寒さで元気が急になくなった。
 Charleston(Charleston, WV)は、ウエストバージニア州の州都であり、カナワ川(Kanawha River)とエルク川(Elk River)の集合地点に出来た町で、製(岩)塩や天然ガス、またのちには石炭が見つかり、チャールストンおよび周辺の主要産業となった。歴史は古く、 1788年に創設、1794年に正式な町となった。

 ウエストバージニア州(West Virginia, US)は、人口は2006年推定1,818千人。ヒスパニック(Hispanic)を除き、白人が94.1%と圧倒的に多い。確かに、市内を歩いても黒人 の数は少ない、しかし、グレイハウンドバス(Greyhound Bus)に乗ると黒人かヒスパニクの比率が圧倒的に多い。まさに、アメリカ全土でも黒人比率が13%強であるにも拘らず、グレイハウンドバスの乗客比率で は87%強が黒人かヒスパニックである。
 ウエストバージニア州の歴史は、南北戦争以前はバージニア州(南軍派でアメリカ連合国の一部で、南北戦争中にバージニア州内の北軍支持派が「独立」した もの)で、1863年に連邦の35番目の州となる。1607年ジェームスタウンへの入植。1609年バージニア憲章で西部開拓が決定。1726年から 1863年の間、東海岸地方からのグループが現在ウエストバージニア州である土地を前哨地点として、スコットランド人、アイルランド人、ドイツ人がペンシ ルバニア州やメリーランド州から移り住んだとされている。
 また、経済力では全米で下から3番目だそうであるが実態は、”TAMARACK”でも販売されている民芸品は一寸お土産に買うのは値段が高すぎるし、住 宅でもCharleston市内では”Walking Tour Guide”にでてくるような豪邸も多い。
 確かに、現在は石炭火力が盛んであり、これにより州の経済を動かしている。新Obama大統領の環境政策で石炭火力の将来がどうなるのか不明である。
 また、ハンティントン市(Huntington)には、石炭や穀物を輸送する為の鉄道会社”CSX Transportation”の事業部もあるが、これもまた州の経済力を全米の下から3番目を上位にすることを目指しているのでは。
  ウエストバージニア州は山岳の州”Mountain State”とも呼ばれるが、それらいしのはBeckley市のみで全体が高原の町であった。あとの都市は、山と川に挟まれた都市である。

 City of Charleston
  チャールストン市内で特に寒さを感じたのは、チャールストンが、オハイオ川の支流であるカナワ川とエルク川の集合地点に存在しているからかもしれない。
 現在の州都は、チャールストンであるが、過去にはウィーリングとの間で州都が行き来したこともある。その後1877年に州民投票によりチャールストンが 州都に選ばれた。州議事堂は以前Downtownにあったが何度か火事にみまわれ、1932年に現在の位置に建てられた。訪問時にはObama新大統領の 就任を祝う準備が行われていた。

州議事堂敷地内にある “ウエストバージニア州カルチャーセンター(West Virginia Culture Center)” では特産品を取り扱っているが、ちょうど訪問時は他のイベントの為、閉館中で見ることができなかった。

 その後、キャピタル・マーケット(Capitol Market)を訪問したが、Maple Syrupの価格は後述”TAMARAKU”価格の半値であった。

チャールストン市内には下の写真のような高級住宅街もある。このなかには、”Charleston Convention Bureau”が発行する”Walking Tour Guide”に住宅は紹介されているものもある。また、これらは”…house”と呼ばれている。

 City of Beckley
  ウエストバージニア州には、国道64号線、77号線と79号線が走っているが、その64/77号線を1時間ほど戻った所にベックリー(Beckley)市 がある。
 将に、ベックリー市は高原の町であり、人口も16,830人(2007年)であるにも拘らずバスなど公共の交通機関は無い。従い、グレイハンドバスで早 めについたにも拘らず、タクシーでモーテル”Howard Johnson Express Inn”へ行き、投宿した。また、逆にグレイハウンドバスに乗る場合にもタクシーを利用した。只、ありがたいことに、”Tamarack”へ行くときは モーテルの支配人が私的にシャトルを出してくれた。尚、もう一つの観光地であるベックリー炭坑展示館(Beckley Exhibition Coal Mine)は11月から翌3月いっぱいは冬のために休館中であった。
 
Tamarack
 Tamarack内にはExhibition Hallがあって定期的に音楽など催し物が開かれている。今日は、アパラチアン(Blue Grass風)フォークシンガーでありソングライターである”Kathleen Coffee”嬢が自作の唄をギターやピアノの演奏とともに披露した。
 同嬢は、ウエストバージニア州アテネ(Athens, West Virginia)の出身で、日曜日には近所の教会で賛美歌を唄ったりしながら成長にして、いまのプロがある。

 City of Huntington
 
グレイハウンドバスでベックリー市からハンティントン市へ向かうには一旦チャールストンへ戻り、そこから国道64号線でいく。ハンティントン市のような中 型の町(人口は48,982人)では市バスのバスセンターを設け、そこにグレイハウンドバスも発着させる。また、同じようにウィーリング市でも同じであ り、また、全米でもバスセンターにグレイハウンドバスを発着させるところが複数ある。 即ち、グレイハウンドバスで降りると直ぐに最寄りの市バスに乗り換 えられるようになっている。勿論、待ち時間はあるが。これは、優れた考えだと思う。その事が分からなかった私は、距離的に近いホテル、こんどは、モーテル ではなく、予約していたホテル”Pullman Plaza Hotel”に宿泊した。ここには、夕食のためレストランもあるし、もちろん、朝食もとれる。

  Cabell-Huntington Convention & Visitors Bureauで貰った観光案内図でHuntington市内を歩いた。 
 Cabell はHuntington市が含まれるCountyであり、Huntington市内に立派なCourt Houseもある。(“Cabell”とは旧バージニア州知事であった”William H. Cabell”が自分の名前で命名されたもの)
 
なんといっても、ハンティントン市は鉄道の町で、その昔、1870年には”Chesapeake and Ohio Railway(C&O)”の西のターミナルができ、町そのものが鉄道関連の店やホテルが盛んになったところと云われている。ここを拠点にシンシ ナティやシカゴ、石炭を積み出すためのニューポートニュースなどと深く関連ができた。その為か、町には”Pullman”などの地名が目立ち、泊まるホテ ルも”Pullman Plaza Hotel”である。”Pullman Car(プルマンカー)”は、米国の鉄道車両設計者G.M. Pullmanが開発したもので個室寝台つきの特別客車である。いまのAmtrakには接続されていない。”Chesapeake and Ohio Railway(C&O)” の後継であるCSX Transportationが石炭などの貨物輸送が盛んである。
 
 尚、市内には、”Charlie’s Harley Davidson Museum”や航空会社の機内誌でもお馴染みの日本食レストラン “Hibachi” などもあった。

  続いてウィーリングへ向かったが、グレイハウンドバスの都合でオハイオ州コロンバスに立ち寄りバスを乗り換えるが、それでほぼ行程に一日かかる。バスがオ ハイオ州に入るとウエストバージニア州の山岳の州と呼ばれる狭さから広大な土地に変わり、そこではトウモロコシや麦が生産されているそうだ。いまは、冬で なにもないが。
 途中で、隣に座った黒人の男性が話し掛けてきたが、その男性は囚人だった。日本の監獄はどんな調子だと聞かれたが、そんなところは知らないと応えざるを 得なかった。でも、その黒人によるとオハイオ州の監獄は開放的なところが多いそうである。

 City of Wheeling
  ウィーリング市はその昔にチャールストン市と首都の取り争いをし、投票の結果で負けたそうである。しかしながらそれまでは、チャールストンと交互に首都を 開いていた故か、寂れているが町には当時の建物が残っている。旧State Capitol(旧州議事堂)であり、West Virginia Independence Hall(ウエストバージニア州独立記念堂)がそれである。
 
“Visitor Center”で観光資料と助言をもらってから市内の観光にでかけた。
  “ウィーリング市”の”Wheeling”はインディアン語である。Ebenezer、Jonathan、AndrewとSilasのZane四兄弟に よって1769年に設立された。ヘンリー砦(その昔は、Fort Fincastle)が、1774年に開かれた。1794年に郵便を運ぶ川舟(Mail Boats)に、1818年に国有道路(National Pike)が、1852年にボルチモア・オハイオ(B&O)鉄道がウィーリングを偉大な製造拠点に仕上げた鉄鋼メーカーと結びついた。
 “Fort Henry(ヘンリー砦)”の最後の戦闘はアメリカ独立戦争で1782年9月11〜13日に戦われたものであり、即ち、英国軍将校のもとで英国国旗を守る 英国将兵やアメリカインディアンの攻撃から砦を守ったEbenezerとSilas Zane兄弟が防御した。それを公にしたBetty Zaneの英雄的行為による。

 “Visitor Center”の担当者に、南北戦争の博物館を見学したいとの希望を伝えると、丁度、相応しい場所が、”West Virginia Independence Hall(ウエストバージニア州独立記念堂)”とのこと。しかし残念なことに、同館は、まだ改築中であり本当に見れたのは一階のみ。地下では、同堂の歴史 を再現ビデオでみた。

West Virginia Indepencence Hall
 リンカーン大統領がアメリカ合衆国第35番目の州としてウエストバージニア州を誕生させる6年前に、連邦政府西地域管轄の税関(Custom House for the Western District of Virginia)としてここウィーリング市に建設された。偶然にもそれは南北戦争勃発の年に完成したため、この建物を”Restored government of Virginia”としてアメリカ合衆国のために人々の政治・討論の場に提供した。バージニアの人達がここで奴隷制度に対して議論を繰り広げたのだった。 これが今日のウエストバージニア州独立記念堂である。そして、1863年にここで奴隷解放などについてバージニア州で議論した人たちがバージニア州から独 立して合衆国側に参加し、合衆国旗に一つの星を追加して35番にリンカーン大統領の奴隷制度反対側に付いた。
 南北戦争が始まっても、バージニア州側には付くことを反対する人も大勢いたが、どちら側からも北軍、南軍の義勇兵に参加することを求められたようであ る。
 南北戦争終結後は、鉄道で集まった荷物をウィーリングのHeritage Portからニューオーリンズ港に向けての船輸送は大規模なものであった。

 もし、ウエストバージニア州独立記念堂が南北戦争の博物館にあたるものとすれば失敗であると思う。規模も小さいし、私が、知りたいのは2年強もの年月を 南軍側を応援するものと、即ち、奴隷制度に賛成するものと、北軍側を勝たせようとするもの、即ち、奴隷制度に反対するものとの違いをもっと明確に、我々に も理解できるような展示や説明であったらなあ…と思った。
 こうして見ると、人口が少ない不利(180万人強)はあるものの州単位での博物館が欲しい。例えば、”New York State Museum”のようなもので、概ね、各州にはあるものである。
 
 帰りは、ペンシルバニア州のピッツバーグ空港(PIT)からデトロイト経由で関西空港に帰宅した。

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